アートと社会。ある写真家の視点 「うすい鉛筆」(後編)

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「うすい鉛筆」後編


現代は、それぞれが違う枠組みをもった「個」の時代。

大きな枠組みをみんなで共有しているのではなく、それぞれ個人が自分の枠組みを持ってそれを基準にして生きている。

「個人基準」が色んなとこで絡まり合って、 一つの基準ではものごとを簡単に整理できなくなっている。

個人がそれぞれ別の方法で、自分の外にある情報を好きなタイミングで選択しながら、それをもとに自分の色を持った枠組みを作り変える。

そうしてできた枠組みは「縄張り」みたいなものかもしれない。

くっきりと引かれた自分の線と、隣にいる他人の線は、これだけ複雑に絡み合った社会の中ではすぐに触れ合うところにある。

逆に遠いところにある線にもこちらが望めば触れ合うことができるし、あちら側から勝手に触れ合ってくることもあるだろう。

ただ、この線があまりにくっきり引かれた「縄張り」化したものだと、違う色をもった線が触れるとそこに摩擦が起きる。

まるで自分の領域に異物が入ってきたかのように、拒絶反応を起こす人もいる。

そうした過剰な拒絶反応は、自分の色ではないものをどんどん排除していって、自分の色と同調する線を外から集めてきては自分の線をもっとくっきり、太くしていく。

より純粋に、自分の線を固める方向への力が意識的にも無意識的にも強くなっていく。

こうなると、もう手強い。

特定の領域の情報を選んでカスタマイズされた縄張りは、もはや強固な壁になって、やってくる異質者を顔を合わせる前に追い返してしまう。

話し合いなんて以前に、そのテリトリーに入ることすら許されないから、退散するか、もしくは戦ってその壁を徹底的に壊すしかなくなってしまう。こうなるともう摩擦どころではない。

終わらない戦闘が始まってしまう。

自分だけの色をもった枠を作ることが悪いといっている訳じゃない。それ無くして、基準を失った社会の中で自分を守ってくれるものはないからだ。

しかし、その線をくっきり太く固めていくと、異質者を受け入れる余白がなくなってしまう。

「あなたの言っていることは知らない。私はこうだから。」という態度は、世界中を「誰かの敵」だらけにしてしまう。

 

これからの社会では、「価値観の転覆」が常に起こり続けるだろう。

何も今に始まったことではなく、人類の歴史は価値観の転覆の歴史そのものだが、これからそのスピードはもっと加速していくだろう。

昨日信じていたものが、今日になって急に変わってしまうこともあるかもしれない。

そうした時、くっきり太い線を守ろうとすると苦しい。
すぐに周りは「他人」だらけになって身動きがとれなくなる。

今まで信じていたものはガラガラと音を立てて崩れ落ちてしまい、頑なに守ってきた「私」だけが残って孤独になる。

だから、自分だけの境界線はゆるゆるに曲がっていていい。
くっきりしたグリットではなく、いつでも消して繋ぎかえることができる鉛筆のような線でいい。

はっきりした形ではなく、「私」という木に生えた枝のような線で、空間の中のあらゆる方向に伸ばしていって、必要があれば切ればいいし、伸ばせる枝は伸ばせばいい。

結局大事な幹が倒れなければ、切った枝もまた生やすことができる。

切断と再生を繰り返して、また新たに組み直すことができるそんなゆるい線がいいのだ。

「頑固おやじ」では生きづらい。子供も頑固だけどそれは気まぐれの頑固で、次の瞬間にはケロっとしてることが多い。
そんな子供が描くような、自由で色んな色を持った線を常に持っておくこと。

平気で上書きできるし、間違ったら消せばいい。

そうして常に線を描き続けることで、自分色の境界線ができる。
それは柔軟で、外に開かれたものであるべきだ。

 

西村明展 Nishimura Akinobu(写真家)

1989年10月17日生まれ。愛知県出身。名古屋学芸大学メディア造形学部 映像メディア学科卒。2014年 キャノン写真新世紀入賞(大森 克己 選) 2017年より都内でフリーランスとして活動。現在、写真集出版に向けて作品を製作中。
コンテンツ投稿サイト「note」にてほぼ毎日写真エッセイをやっています。

 

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