アートと社会。ある写真家の視点 「うすい鉛筆」(前編)

はじめまして。

私は、東京にて写真をやっています、西村明展と申します。

写真とエッセイという形で前編/後編の2回に分けて皆さんにお届けします。 今回は、いつも僕が写真を撮るうえで大事にしている「境界線」についてのお話しです。

理想論ですが、表現が理想を語らなかったら他に語る場所が無くなってしまうのでお話しさせていただきます。少しでも何かを感じて疑問をもっていただけたら嬉しいです。


「うすい鉛筆」前編


この世界は、境界線を引くことで整理されていく。

そうしなければ、あまりにも複雑になった社会の中で、集団が摩擦を受けすぎずに生活することができなくなるからだ。

人と動物、社会と自然、仲間と敵、善と悪、好きと嫌い、理性と感情など、いつの間にか設定された境界線は、それをほとんど意識しなくても判断できるくらい無意識の層にまで線が引かれている。

 

 

初めは単純だった線も、必要に応じて細かく引かれて空間も認識も分断されていく。

そうして、都市における3次元の空間も、インターネット上におけるバーチャルな 空間も、境界線によって、綺麗に整理することを目的として定められたグリットみたいな領域が他の空間を埋め尽くしていっている。

 

 

曖昧な空間は、まるで存在することを許されないかのように全ては枠に収められる。

ある枠組みが空間の中に出来上がると、その瞬間に生まれるのが「内と外」という意識だ。

それまでは、そこにある無数のものとの関係性の中で存在していた空間が、 突然、他から「切り離されたもの」としてひとつの個体のような空間になる。

別にそれはそれでいいんだが、その境界線が強固になればなるほど、個体性が確立 されればされるほど、同時に否定性も伴って来るということがある。

「ここからここまでは、私の世界。あとは知らない。」
という具合に、もともと関係性の中にあった空間やものが、強い境界線を引くことによって急に「外の世界」 という異物になってしまう。

 

 

もともとが自分を構成する要素のひとつとして、関係をもっていた周囲の環境が、 ある日突然「他人」になってしまうのだ。

しかし、私たちは社会で暮らす限り周囲との関係性の中から完全に切り離された存在として生きることは不可能だ。

無人島で一人で暮らすしかない。

 

 

いや、もし無人島生活をするなら、なおさら周囲との関係性を意識しなければ絶対に生きていけない。
毎日の天候や食料の確保、住居を作るための道具や身体を守る 為の衣服、すべてが周囲との関係の中で生きている。

 

 

「動物」とは直接命のやりとりをしなければならないし、
「植物」は観るものでは なく必要に応じて活用する資源として上手に使わなければいけないし、
「天候」は その日の行動を制限される避けられない障害ともなりうる。

そこでは、圧倒的なヒエラルキーはなく「自然」という外の世界と平等なステージ に立たされることになるだろう。

そこでは、「切り離された存在」として生きることは、想像に容易く直接に「死」を意味することだ。

 

 

西村明展 Nishimura Akinobu(写真家)

1989年10月17日生まれ。愛知県出身。名古屋学芸大学 メディア造形学部 映像メディア学科卒。2014年 キャノン写真新世紀入賞(大森 克己 選) 2017年より都内でフリーランスとして活動。 現在、写真集出版に向けて作品を製作中。
コンテンツ投稿サイト「note」にてほぼ毎日写真エッセイをやっています。

 

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